本文
瀬戸内海国立公園に属し、日本一細長い佐田岬半島の最先端にそびえる白亜の灯台。
晴れた日には豊予海峡(ほうよかいきょう)を隔てて九州を遠望できます。
松山道大洲ICよりR197、県道経由、
八幡浜・三崎方面へ1時間30分、
徒歩約20分
あり(無料)40台
県立自然公園「伽藍山(がらんやま)」
標高413.6m。頂上展望台からは、九州・中国の山々が眼下に見られます。遊歩道や、野鳥の森もあります。
桜の名所で石仏や洞窟が数多くあり、神秘の山としても知られています。
国道197号線を八幡浜市より三崎方面へ
三崎トンネル入り口より右へ伽藍山標識を入る
あり(山頂直下)
三崎湾の南岸にある阿弥陀池は広さ約5ヘクタールの潟湖(ラグーン)で、コイ・ウナギ・ボラが泳ぎ、四季を通じて釣りファンの穴場となっています。野鳥も飛び、朝霧も美しく、桜も楽しめます。近くの井野浦池尻(いのうらいけじり)には、波よけ・風よけの石垣群が見られます。
さらにその南には白い砂浜が広がり、キャンプ・海水浴場としても賑わう県立自然公園です。
平成元年度から8年度までの8年間をかけて整備した延長307mの人工砂浜で、湾曲した突堤と潮の満ち引きによる砂浜の形が、月の満ち欠けを思わせます。
海水浴はもちろん、夏場にはキャンプ場も開設されます。
松山道大洲ICよりR197、県道経由
八幡浜・三崎方面へ70分
あり(無料)30台
名工のノミで刻まれたような奇岩、緑に映える松、鏡のような海、それと付近一帯は、ウバメガシの群生地でもあり、美しい自然の景観に魅了されます。
梶谷鼻の奇岩は石灰岩、水成岩から成り、大理石を産出し、装飾用建材として出荷されたこともありました。
(町指定有形文化財)
口碑によれば、八幡宮を岩清水に勧請された翌年に宇佐八幡宮より勧請したと記されています。
貞観2年(860)の創建と伝えられていますが、はっきりとしたことはわかりません。
古代の建立による鳥居一基が地震で転倒したとき、残った一柱を用いて再建したと伝えられています。
明治維新まで大社正八幡宮と称し、三崎浦15ヶ浦の氏神であったが、その後総氏神(大氏神)と称するようになりました。
お鼻(半島突端部)の海中に光るものがあり、蜑人(海士)が潜ってみると、大蛸が金の阿弥陀像を抱えているので格闘の末、これを取り上げ船に戻るなり気絶したそうです。
そこで串の蜑長、長左衛門が「これは神霊が世に現れんことを願って発光せしものならん。」と、ひとまず大島(渡島)に祀りましたが、ここは嵐や潮が満ちると参詣できないので、浦人達と相談して野坂に祠を建て、野坂大権現として祀るようになったと伝えられています。
(町指定有形文化財)
臨済宗妙心寺派の伝宗寺は上地区裏手高台にあって、本堂は間口9間(16.4m)奥行き7間(12月7日m)あり、かつては三崎16ヶ浦の檀那寺でした。
本尊は阿弥陀如来像で、開基は土居城主大久主馬範貞と彼の墓に刻銘され、文禄、慶長の頃、江源氏三崎一族の氏寺として建てられたものと思われます。開山は、承応元年(1652)、その後、正徳、寛政、天保年間に渡り、幾度となく改築を重ねた。
平磯地区と釜木地区のほぼ中間から急斜面を下った小浜(通称ゴンドウ)に花崗岩で石積みされた台地上にコンクリート造りの平屋の建物があります。
小さな建物だが入り口のアーチ、窓枠のタイル張り、スタッコ壁など当時のモダニズム(現代風)が巧みに表現されています。
この建物は対岸(九州)からの海底ケーブルを陸揚げする施設で、昭和2年(1927)3月、佐賀関町志生木と平磯間44.2kmをつなぐために設置されました。
当時、電話による通信は有線以外に方法はなく、海を隔てた対岸(九州・本州)との通信は、この海底ケーブルの普及によって急速に発達しました。
正野谷桟橋は、長さ約50m幅5mコンクリートと一部鉄材で作られ、波圧防止装置(波の力を弱める仕組み)と24本の橋脚に支えられていて、正野谷の中腹にある第2砲台設置工事の資材等の陸揚げ基地として作られたものです。
佐田岬灯台がある岩壁には、旧陸軍砲台跡があり、遠くなった戦前の面影を残しています。
大正8年(1919)豊予要塞整備要領が決定、同10年(1921)佐田岬砲台の建設が始まりました。
15年(1926)第1砲台(加農砲4門と関連施設)翌昭和2年(1927)には、第2砲(榴弾砲4門と関連施設)が設置されました。
(登録有形文化財)
旧三崎精錬所は創業不明ですが、明治30年以前に童子鼻に設置されていたようで、精錬方法は遺構を見る限り、江戸時代から行われてきた採鉱、砕鉱、焼鉱、荒吹という流れだったように思われる。
当時20、30人が働いていたが、精錬による煙害や銅価格の暴落、不景気により、明治の末に操業を停止した。
現在はレンガ煙突3本と数基の焼窯跡等が残り、また、精錬過程で出たからみが周辺や海岸に散在している。
各地の海岸でも見かける風除けの石垣です。
前は海、後は沼地で適当な住所に乏しい野坂の人々の生活を守り続けたのは、これらの石垣(地元の人は「へいかさ」と呼ぶ)でした。
宇和海を一望できる斜面の標高約100mから150mの間に名取集落はあります。
元和元年(1615)に宇和島藩主伊達秀宗が、奥州仙台から入府した際に奥州名取郷より軍夫として連れて来た人々を、宇和海の見張り役として当地に定住させたのが、名取りの始まりとされています。
名取の石垣の特色は、たいへん変化に富んでいる事で、石の種類も青石・石灰石などさまざまです。
また不安定な地盤のせいか、積み方も巧みに工夫されており、その種類も多く、野良積み・平積み・矢羽根積み等の工法が用いられています。
その結果として、石垣は豊かな表情を見せ、独特の文化を造りあげています。
(国指定天然記念物)
アコウはクワ科で亜熱帯性の常緑高木です。
別名アコウジュ、アコギ、アコノキ、タコノキとも呼ばれています。
三崎のアコウは、三崎港から灯台方面に向かう道路沿いに石垣にへばり付くように大きく茂っています。
北限分布地であることから、大正10年(1921)国の天然記念物に指定されました。
(町指定記念物)
クスノキは西日本の暖地に育成する常緑高木です。
生長が早く長命で大木が多いことで知られています。
伝宗時の境内に、幹周8.7m、樹高14.7mのクスノキの老木があり、樹齢については確かなことは不明ですが、平安の昔、藤原の純友が日振島を拠点に海賊の将として略奪を行っていた頃、追捕に源経基が派遣されたが純友に敗れその一部がこの地に住みついたと伝えられています。
その頃にはすでに大きく枝を張っていたことから、樹齢1000年余と推定されます。