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(町指定記念物)
得能主善は、周桑郡徳田村(現西条市)出身で、もとは河野氏系の浪人であったと伝えられる人物で、のちに、宇和郡領主西園寺公広の十五将の一人、八幡浜萩森城主宇都宮房綱の豪族として、九町長崎城を拠点に、石高二四一石四斗二升を領として、中世末期の九町浦、二見浦一帯を治めた。
得能主繕ゆかりの地
得能主膳は、周桑郡徳田村(現西条市)出身で、もとは河野氏系の浪人であったと伝えられる人物で、のちに、宇和郡領主西園寺公広の十五将の一人、八幡浜萩森城主宇都宮房網の豪族として、九町長崎城を拠点に、石高二四一石四斗二升を領して、中世末期の九町浦、二見浦一帯を治めた。
得能森
得能森には、得能主膳が祀られている神社がある。主に近隣の得能姓の人々を氏子とするが、伝説ではこの一族が十三戸以上増えることはないと伝えらえる。
沖の城
九町保育園の南側にある小高く盛られた場所で「沖の城」と呼ばれているが、城跡ではない。『町見郷土史』には「一説には主膳その終る所を知らず、敵しきりにこれをもとめしも遂に得ず、沖の城の付近の田園に百姓にまぎれてありしが遂に到底かなはざるを知って、その所持品を沖の城に埋めて梵田(寺の地所)に於いて自刃す」とあって、得能主膳に関わる物品が埋められていると伝えられている。
梵田
現在の天徳寺の東、宅地に囲まれた農地の隅に石造層塔が建っている。「梵田」は寺の土地という意味で、かつてはここに天徳寺があったと伝えられている。天和元年(1615)成立の『宇和旧記』に、「一、海南山天徳寺、(中略)此寺の門前田の中に、城主得能主膳石塔有り」と、すでにその存在が明記されており、『町見村郷土史』では「通明ノ死体ヲ埋リタル所ニテ墓碑アリ」と記し、得能主膳(通明)の墓と伝えられてきたが、詳らかではない。
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